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blog | 2017.07.10

色摩大使に聞く(4) 大使や総領事として各国に赴任して

『日本の死活問題~国際法・国連・軍隊の真実』の著者・色摩力夫先生は、外交官として海外で20年以上を過ごされました。

世界という土俵で、国益を背負って生きてこられたわけですが、そんな色摩先生に外交官時代の興味深いお話をうかがいました。今回は奥様の和子様にも登場いただいてます!

色摩力夫(しかま・りきを) 評論家、元チリ大使。外交官として9カ国に赴任し、20年以上を海外で過ごす。戦時国際法の第一人者。著書に『新戦争論(小室直樹氏との共著)』『国家権力の解剖』『国民のための戦争と平和の法(小室直樹氏との共著)』『国際連合という神話』など多数。

 

 

海外にはあるが、日本にはない「社交界」

 

──色摩先生は、外交官や大使として 20年以上をさまざまな国に赴任されていますが、何カ国になりますか?    

 

色摩 スペインから始まって、戦争中のベトナム、パリのOECD(国際機関)、ペルー、イタリア、サンパウロ総領事、そのあとは大使として、ホンジュラス、コロンビア、チリ。全部で9カ国です。

 

──外交官や大使が諸外国に赴任されると、まずはどんなことをなさるのですか?

 

色摩 第一に、任国の政府に挨拶に行きます。これは当たり前のことですね。

ところが面白いことに、大使クラスになると、その国の”社交界”にも挨拶に行かねばならないのです。西洋では、社会の構造の中に上流階級があり、そこに社交界があるんです。

 

──中南米にも社交界はあるのですか?

 

色摩 中南米にもあります。

 

その国に赴任した各国の外交官がひとつのグループを形成して、「外交団」として社交界に所属し、活動をするわけです。

社交界を形成しているのは、貴族の家柄の人とか、資産家、企業のトップなど、その国を動かしているリーダー層です。

 

そこに何かあるたびに招待され、紹介したりされたりして、気が合えば、今度は自分のところに呼んだり呼ばれたり、付き合いが始まる。なにしろ国のリーダー層が集まっているわけだから、相談事などをして、ずいぶんと助けてもらったりしましたよ。

 

外交官や大使というのは、ひと言でいえば、外務省と連絡を密にして、問題があれば対処するという仕事なのですが、それ以外は社交界とのつきあいがほとんどでしたね。

 

ところが日本には社交界はありません。だから、外務省は大変だと思います。海外からやって来た外交団をお世話する制度としての受け皿がないのですから。

 

外交官夫人として心がけたこと

 

──社交界の集まりには奥様も同行なさるのですか?

 

奥様 主人だけの時もありますが、大きなパーティはたいてい私も参加しました。夫婦同伴の行事はけっこう多いんです。

 

──日本とは文化も習慣も違う国々ばかりでしたでしょうし、嫌なこともあったのではないでしょうか?

 

奥様 嫌な思い出がないわけではありませんが、あの国は大嫌いになったというようなことはありませんでした。ほとんどが良い国でした。恵まれていたのだと思いますね。

 

──奥様としては、どんなことに気を遣われましたか?

 

奥様 私は外国に行ったら、日本人として恥ずかしくないように自分を律しなければならないと思っていました。

もうひとつは、任国を好きになること。理解はもちろんのこと、そこに慣れて、なるべく好きになる努力をしてきました。このふたつが大事だと思って、暮らしてきました。

 

現地にいる日本人の方とも仲良くならなければならない。任国ともうまくやらねばならない。外交団ともうまくやらねばならない。人間関係をいかに円滑にしていくか、そればかり考えていたように思いますね。

 

150万人の日系人社会の総領事として

 

 ──色摩先生はサンパウロでは総領事をなさっておられますが、外交官とはまったく違ったお役目だったのでしょうか?

 

色摩 総領事の仕事は、対外交渉というよりも、その土地の日本人社会、日系人社会の保護と交際が主でした。ブラジルには日本からの移民が多く、当時は日系人が150万人ぐらいいましたから。

 

日系人社会には県人会があり、事務所まであるんです。私は山形県人会、家内は佐賀県人会に所属していて、家内はバザーなど、しょっちゅう手伝いに行ってました。

 

私はというと、日系人の村でセレモニーや大きな行事があると招待されて、そこの人々と交流したり、碑文を刻むから何か書いてほしいと言われて、毛筆で書いたり。この私の字がけっこうな数の石碑になりましたね(笑)

 

医療もなく奴隷のような生活をしながら生き抜いた日系人

 

色摩 総領事として管轄しているところは日本の国土の何倍もあって、奥地のまたその奥地というところまで管轄地域でしたから、視察に出かけるのも大変でした。ヘリコプターで移動するのですが、「こんなジャングルや沼地を切り開いたのか!」と思うようなところに日本人は入植していったわけです。

 

奥様 入植されたところに行きますでしょ。すると、日本ではお見かけしないような肌が赤銅色のお年寄りがいらして、帰りに飛行場に私たちの見送りにいらして、私の手を握られるんです。その手が大きく骨太で堅くこわばっていて、どんなにかご苦労なさったんだろうと思うと、こみあげてくるものがあって、涙がぽろぽろ出てきました。

 

色摩 奥地に行くと、人が住んでいないような所に日系人の共同墓地があるわけです。なぜかというと、その土地を放棄して町に移動したという例がたくさんあるんです。 墓地には小さな墓がたくさんあって、見ると、2歳とか3歳とか彫られてある。育たなかったんですね。日本人はコメを作る民族だから、水のあるところを探して移動したのでしょう。水辺だからマラリアでバタバタ亡くなったそうです。

 

古老の話を聞くと、マラリアのほかにも大変な病気が3つあって、トラコーマで失明したり、虫が体に入って卵を産んで肉体が蝕まれたり、鉛のカンで焼酎を造るので鉛毒になって命を落としたり、医療もなく、奴隷のような生活といっていいくらい悲惨だったようです。

 

敵国人として自由を奪われた日系人

 

──日系人は第二次大戦中もご苦労なさったのでしょうね。

 

色摩 ブラジルにとって日本は敵国となってしまいますからね。というのも、大戦末期に連合国が国連に参加する条件として枢軸国へ宣戦布告した国としたため、ブラジルも日本に宣戦布告したわけです。すると、日系人は旅行の自由も奪われて、ずいぶん苦労されたと聞きました。

 

その後、日本が戦争に勝ったか負けたかということで、日系人社会が勝ち組と負け組に分かれて、殺し合ったという悲惨な歴史もありました。けっきょく負け組が勝ったわけですが、当の日系人から逸話の数々を聞くと、まるで時代がタイムスリップしたかのような錯覚に陥ったものです。

 

奥様 サンパウロは他のどの国よりも思い出深い地となりました。感情移入ができましたし、日系人社会と交流できて、本当に良かったと思っています。

 

──ありがとうございました。

 

色摩力夫著『日本の死活問題』は、オピニオンリーダーとして活躍している有識者の方々からも、
「目から鱗」「大切な視点が盛りだくさん」「教科書に使いたい」との感想をいただいています。

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この記事の作成者:良本和惠(よしもと・かずえ)
書籍編集者。1986年人文社会系の出版社で書籍編集者としてスタート。ビジネス系出版社で書籍部門編集長、雑誌系出版社で月刊誌副編集長をへて独立。2013年夫と共に株式会社グッドブックスを立ち上げる。趣味は草花や樹木を眺めること。